慶長元年(1596年)(安土桃山時代)日等上人により開山されました。当初は法輪山法華寺という名前でした。しかし延宝六年(1678年)、紀州藩附家老で新宮城主の水野重上候がこの寺を菩提寺と定め、父の法号本廣院を寺号に、母の法号惠雲院を山号とし、惠雲山本廣寺と改められ現在に至ります。
所属する本山は水野家菩提寺となる際に京都妙覚寺から身延山久遠寺へ変更されました。
本堂のご本尊は十界互具の立像で16体あり、全国的にも珍しい形式です。ご参拝の際は是非ご覧下さい。
新宮城主である水野家は、3代目重上候の代に日蓮宗に改宗し、ここ本廣寺を菩提寺としました。 その理由は重上候が総本山に送られた書状の中に見る事が出来ます。そこには、改宗は母である惠雲院様の熱心な法華経信仰に応える孝行の志によるものであり、新宮の地に日蓮宗の宗旨が広まる事は一族の喜びである、という事が書かれています。 記録によると本廣寺では水野家の先祖代々の菩提を弔うだけでなく、病気平癒などの祈願も行われていました。
時を経て昭和の初め、水野家ご当主が各地の位牌を全て集めて本廣寺へお預けになられました。以来当山では現在に至るまで歴代ご当主のお位牌をお祀りしています。 水野家ご当主がお位牌をお預けになられる際、新宮の各寺院のご住職と水野家家臣が集まり法要が営まれました。その時の写真が今も残っています。
永聖跡免許状
水野重上書状(法花寺宛)
久遠寺日省書状(水野重上宛)
川上不白建立の供養塔
茶道江戸千家の流祖であり、水野家家臣で茶頭職でもあった茶人川上不白の生家は本廣寺を菩提寺としています。そうした関係から晩年不白が帰郷した際、境内に主、師、親を偲び、一石につき一文字法華経を写経したものを納めた供養塔を建立しました。形は違いますが、雑司が谷の鬼子母神様(法明寺様)にも不白建立の供養塔が残っています。
川上不白筆
お寺に来られた方からは「ここに来るとホッとする」「境内に入るとすっきりした気持ちになった」「お経が聞こえて来たんですが、お経って聞いているだけでも何だかいいですね」と有難いお言葉を頂戴する事があります。
お寺とは仏様がいらっしゃる事を感じられる、ちょっとだけ非日常的な空間ではないかと思っています。
皆様にそうした気持ちになって頂けるのは、歴代ご住職や檀信徒皆様が苦心して維持し、守って来られた歴史が積み重なった結果なのだと先人に感謝するところです。
こうした場所をもっと多くの方に知って頂き、気軽に利用して頂きたいと思っています。
お寺が大切な何かを感じ、気付き、学び、成長する場となり、そこから人同士のつながり、可能性が広がっていく事を願っています。
本廣寺住職 清水文雅
Bunga Shimizu